高校入試 社会 虎の巻

高校受験のための社会科教室

歴史 発展編 第9回①

世界史①~西洋古代・中世~

1 地質年代新生代第3紀末期の約600万年前,類人猿から進化した最古の人類である〔 ① 〕が誕生し,〔 ② 〕・〔 ③ 〕と進化し,数万年前に現在の人類の直接の祖先である〔 ④ 〕が出現した。脳容積は〔 ① 〕で現在の人類の〔 ⑤ 〕,〔 ② 〕で〔 ⑥ 〕,〔 ③ 〕でほぼ同量であると推定される。
①猿人  ②原人  ③旧人  ④新人  ⑤3分の1  ⑥3分の2
 

 人類の進化は,猿人→原人→旧人→新人ですが,旧人と新人は一時期重なっています。脳容積は新人を1(約1500cc)として,猿人はその3分の1,原人は3分の2です。(旧人は新人と同じとして) 

   
2 代表的な化石人類として,猿人には「南の猿人」を意味する〔 ① 〕(南アフリカ),原人ではジャワ島で発見された〔 ② 〕や中国ペキン郊外で発見された〔 ③ 〕,旧人にはドイツで発見された〔 ④ 〕がある。
アウストラロピテクス  ②ジャワ原人  ③ペキン原人  ④ネアンデルタール人
 

 ネアンデルタール人は死者を悼む心をもち,埋葬の習慣があったといわれています。 

ネアンデルタール人の埋葬(メキシコ国立人類博物館 メキシコシティ)
   
3 ヨーロッパで発見されたクロマニヨン人は,フランスの〔 ① 〕やスペインの〔 ② 〕に洞穴絵画を残している。
①ラスコー  ②アルタミラ
   
   
4 地質年代新生代第4紀の前半を〔 ① 〕といい,その大半は〔 ② 〕期であった。考古学上では旧石器時代にあたり,人類は打製石器を使用し,狩猟・漁撈・採集生活を営んでいた。
洪積世(更新世)  ②氷河
 

 考古学では旧石器時代地質年代では第四期洪積世(更新世),気候上は氷河期(氷河期と間氷期の繰り返し)。 人類の誕生は地質年代で第三期末期とされます。

   
5 最後の氷河期が終わり,地球が温暖化する約1万2000年前から現在までを地質年代〔 ① 〕とよび,考古学上〔 ② 〕時代がはじまった。人類は〔 ③ 〕石器・〔 ④ 〕を使用し,西アジアから農耕・牧畜がおこなわれるようになった。
①沖積世(完新世)  ②新石器  ③磨製  ④土器
 

 考古学では新石器時代から現在まで,地質年代では第四期沖積世(完新世),気候上は後氷期。これらと前代の境がだいたい1万年(1万2000年)前。 

   
6 〔   〕とは「太陽の昇るところ」を意味し,紀元前3000年ごろ文明が発祥したエジプトからメソポタミア一帯を指す。
オリエント
 

古代オリエント地中海世界の流れ

   
7 エジプト文明では巨大なピラミッドが多数つくられ,中でもギザの〔 ① 〕王のものは世界最大である。神聖文字(ヒエログリフ)とよばれる文字が使用され,神殿や〔 ② 〕に書かれた。天文学や測量術も発達し,1年を365日とする〔 ③ 〕暦が使用された。
①クフ  ②パピルス  ③太陽
 

 「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」といったのはギリシャの歴史家:ヘロドトスとされます。(本当は?)ナイル川は上流が雨季になると毎年定期的に下流で氾濫をおこします。このときに運ばれてきた肥沃な土砂が,下流に恵みをもたらすのです。しかし洪水になるとこれはもう災害です。ナイル川の水量がいつ増えるのか,治水・灌漑の必要から測地術・天文学が生まれます。
 ナイル川にはカヤツリグサ科のパピルスという植物が自生し,この繊維を使って紙(正確には現在でいう紙ではない)をつくりました。パピルスは「ペーパー」の語源です。このパピルスに神官たちが筆記した文字をヒエログリフ(神聖文字)といいます。象形文字の一種です。 

クフ王ピラミッド(エジプト ギザ)

王家の谷のヒエログリフ(エジプト ルクソール)

パピルス
   
8 メソポタミア文明では〔 ① 〕暦や〔 ② 〕進法が発明され,粘土版にくさび形文字が刻まれた。紀元前2000年ごろに栄えた〔 ③ 〕王国ではハムラビ王が,刑法を中心の法典を残した。
①太陰  ②60  ③バビロニア
 

 パピルスに文字を書いたのがエジプト。乾く前の粘土板に文字を刻んだのがメソポタミアです。ハムラビ法典には刑法が書かれており,同害復讐法というのが有名です。「目には目を,「歯には歯を・・・」という言葉で知られています。
 バビロニア王国と出てきたら,古代メソポタミアの王国であったことを思い出しましょう。 

ハムラビ法典(ルーブル美術館 フランス パリ)

くさび形文字
   
9 バビロニア王国は紀元前16世紀,小アジア(現トルコ)に出現して世界ではじめて〔 ① 〕器を使用した〔 ② 〕によって滅ぼされた。
①鉄  ②ヒッタイト
 

 世界で最初に鉄を用いた民族がヒッタイトで,その製法は極秘でした。鉄を用いた武器や戦車を開発し,メソポタミアやエジプトに勝利しています。しかし前12世紀,ヒッタイトが滅びると鉄の製法が広がり,世界で鉄器文明が栄えることになるのです。 

   
10 紀元前1000年ごろ,東地中海では海洋貿易で栄えた〔 ① 〕人が地中海沿岸に多くの植民地を建設し,〔 ② 〕のもとになる文字を使用した。またパレスチナ地方では〔 ③ 〕人が唯一神ヤハウェを信仰する〔 ④ 〕教のもとに王国を建設し,その聖典はのちに『〔 ⑤ 〕』としてまとめられた。
フェニキア  ②アルファベット  ③ヘブライ(ユダヤ)  ④ユダヤ  ⑤旧約聖書
 

 東地中海とは現在のシリア・レバノンイスラエルあたりです。紀元前1000年ごろの沿岸地域,海上ではフェニキアが,陸上ではヘブライが活躍します。
 フェニキアは海洋民族で地中海各地で貿易に従事しながら,拠点となる海外植民地を築きました。ギリシャ人の先輩です。船には現在大量伐採のためごくわずかしか残っていないレバノン杉が使用されました。レバノン杉はレバノンの国旗のデザインになっています。
 海外植民地の中にはのちに本国フェニキアをしのぐ繁栄を築いたカルタゴ(現在のチュニジア)などがありました。カルタゴはローマと地中海制海権をめぐるライバルになります。
 エジプトのヒエログリフから発展したとされるフェニキア文字を使用し,これが現在のアルファベットになります。ヒエログリフフェニキア文字ギリシャ文字→ローマ文字。

フェニキア文字(カルタゴ博物館 チュニジア)

 一方,陸上ではヘブライ人が部族同士がまとまって王国(イスラエル王国)を建国します。ヘブライ人とはユダヤのことです。(以降ユダヤ人と表記)ユダヤ人は王国建国の地を神との約束の地(カナン)だと信じ,他民族との長年の抗争の結果,王を抱くことになった(これまでは宗教的指導者が部族をまとめていた)。宿敵であったぺリシテという民族が住んでいたことからこの地はパレスチナともよばれます。
 ダビデ,ソロモンという王のころ栄えますが,その後は内紛や他国の侵略によって民族は世界に散り散りになり,ようやくユダヤ民族の国家が再び成立したのが1948年に建国したイスラエルです。
 ユダヤ教聖典旧約聖書。「約」とは「神との契約」を意味します。アダムとイブの「創世記」からギリシャ時代までのイスラエル民族の歴史書であり,宗教の戒律をまとめたものです。 

嘆きの壁(イスラエル エルサレム)
   
11 紀元前8世紀ごろから,古代ギリシャでは〔 ① 〕とよばれる都市国家が建設され,その中には民主政治をおこなった〔 ② 〕や軍国主義政治をおこなった〔 ③ 〕があった。その文化は〔 ② 〕の〔 ④ 〕神殿や〔 ⑤ 〕に代表される哲学にみられる。
①ポリス  ②アテネ  ③スパルタ  ④パルテノン  ⑤ソクラテス
 

 都市国家ポリス紀元前8世紀ごろから形成されたと考えられています。オリンピア競技会(オリンピック)が初めて開かれたのは紀元前776年だから,このころにはもうポリスという都市国家とともに,ギリシャ人という同朋意識も存在した。
 4年に1回というのも今と同じ。競技会開催中はたとえ戦争中でも停戦するのが習いでした。「スタジアム」という言葉も当時のトラックの長さ1スタディオンという単位からきています。現在のオリンピックの開会式では毎回最初に登場するのはギリシャと決まっています。
 ポリスには強国とされる国が2つありました。アテネスパルタです。アテネはのちに成年男子(18歳)による民主政をはじめる国として重要です。伝統的に海洋貿易に長け,そして海軍国家です。
 もう1つはスパルタ。伝統的に陸軍国家で,「スパルタ教育」の由来になりました。スパルタの男子は7歳から親元を離れて集団生活をします。そこではただ肉体を鍛えることが日課です。20歳になると武器をもって山に放り出されます。1人で一週間生き抜くサバイバルテストです。一週間後,帰るときには奴隷の首を持ち帰ることが合格の条件です。
 古代ギリシャや地中海沿岸では他の文明と異なり,統一した国家が誕生しなかった。土地が石灰岩質で穀物栽培には向かず,多くの国民を養うだけの食料が得られなかったからです。そのかわりオリーブやぶどうといった付加価値の高い果物が採れる。これをもって海外と交易して穀物などを手に入れていたのです。そしてフェニキア人のように各地に拠点となる植民地を建設した。例えば,ビザンティウム(現イスタンブール)ネアポリス(現ナポリ)マッシリア(現マルセイユ)などが有名です。
 古代文明ではたいてい王権は宗教的権威と結びついています。古代ギリシャでは宗教は人々を支配するものではなく,守護するものでした。だからより身近であるため,より人に似ていなければなりません。古代ギリシャの神々は人の形をしていたのです。ギリシャ神話に登場する神々は,その性格がよいところもあれば,悪いところもある。人を暖かく見守ることもあれば,まちがいを犯すこともある。より人間らしいキャラクターが設定されています。このあくまでも人間を中心とした人間らしい文化が古代ギリシャの文化です。 
 アテネの守護神は女神アテナ。彼女は知恵の神であり,戦争と平和の神でもありました。彼女を祭る神殿がパルテノン神殿です。
 古代ギリシャではまた哲学も栄えました。哲学というと難しいと思うかもしれませんが,哲学は英語で「フィロソフィー」,「フィロ」はギリシャ語で「愛する」,「ソフィア」は「知恵・知識」を意味します。「知恵を愛する」で哲学です。つまり学ぶことそのものが哲学だったのです。日々の生活で疑問をもち,問いかけ,探り,答えを出す。解らないことの一切を超自然的な存在(神や悪魔)のせいにしない。現在の学問の基礎もまた古代ギリシャで誕生したのです。これを追求した人が哲学者です。いまのように「~学」と細かく分けられていたわけではなく,いろんなことをまとめて追求していきました。
 代表人物がソクラテス。哲学の祖ですソクラテス孔子・シャカは紀元前5世紀のほぼ同時期の人物です。【時期】彼自身は著作を残していませんが,その教えは弟子のプラトンの著作にみられます。そのプラトンの弟子がアリストテレス。彼は現在の学問のあらゆる分野の研究をおこない,「万学の祖」ともよばれます。アリストテレスアレクサンダー大王の家庭教師としても知られます。

   
12 紀元前5世紀,オリエントを統一した〔 ① 〕がギリシャに進軍して,〔 ② 〕戦争がはじまった。アテネを中心とするポリス連合軍がこれを撃退した。
①アケメネス朝ペルシャ  ②ペルシャ
 

 紀元前6世紀,オリエントに強大な統一国家が成立します。アケメネス朝ペルシャです。現在のイランを中心にメソポタミア地方・エジプト・小アジア(現トルコ)をその領土とします。そしてその覇権をエーゲ海を越えたギリシャに向けました。これがペルシャ戦争です。
 ギリシャ側は陸をスパルタが,海をアテネが指揮を執り,ペルシャを迎え撃ちます。有名なマラトンの戦いではギリシャ軍の勝利を,伝令兵が武装したままマラトンからアテネまで走って伝え,そのまま絶命したという話があります。ここから「マラソン(マラトン)」競技がはじまりました。
 ペルシャを退けたアテネはポリスの盟主となり,紀元前5世紀中ごろに全盛を迎えます。ペリクレスという人物のもと,成年男子全員が参加できる民会が国政の最高機関となり,直接民主制が実現します。注意したいのは,女性や奴隷には参加する権利はなかったいうこと。パルテノン神殿もこのころ建設されました。 

   
13 紀元前4世紀,〔 ① 〕王国が南下してギリシャを征服し,ギリシャ世界が統一された。その後〔 ① 〕の〔 ② 〕大王は東方遠征開始し,アケメネス朝ペルシャを征服してインダス川流域にまで至る〔 ② 〕帝国を築いた。これによってギリシャ文化とオリエント文化が融合した〔 ③ 〕文化が誕生した。
マケドニア  ②アレクサンダー  ③ヘレニズム
 

 ギリシャの北方の強国:マケドニアが南下を開始し,紀元前338年のカイロネイアの戦いでギリシャ軍に勝利すると,マケドニア王国によるギリシャ支配がはじまりました。
 アレクサンダー(アレクサンドロス)が王位に就くと,彼は10年にわたる東方遠征を開始します。ギリシャの東方というと彼の当面の敵はアケメネス朝ペルシャということになります。紀元前330年,アケメネスペルシャを破ったアレクサンダーは,その領土をそのまま征服し,インダス川流域にまで達するアレクサンダー帝国を築きます。しかし帰国の途中でアレクサンダーは病死してしまいます。
 アレクサンダー大王の東方遠征がもたらした影響にヘレニズム文化があります。「ヘレニズム」とはもともと「ギリシャ風」という意味ですが,ギリシャ文化が東方に伝わったことで,ギリシャ文化とオリエント文化が融合した文化が誕生しました。例えば神々を人間の形で表す(ギリシャ風彫刻)といったことが,オリエント地域にもみられるようになりました。 これがさらに南アジア地域の仏教文化と融合して,仏像が誕生します。南アジアではガンダーラ文化(美術)とよんでいます。

ガンダーラの仏像(インド国立博物館 ニューデリー) 顔と衣がギリシャ

 アレクサンダーの死後,帝国はその後継者たちによって三分割されます。アンティゴノス朝マケドニアセレウコス朝シリア,プトレマイオス朝エジプト。このうち出題されるとすればプトレマイオス朝エジプトぐらいでしょう。いずれものちにローマによって征服されます。

   
14 紀元前8世紀,イタリア半島中部に成立した〔 ① 〕は,紀元前6世紀に貴族による共和政を樹立し,紀元前〔 ② 〕世紀にイタリア半島を統一した。さらに地中海諸地域に領土を拡大したが,その一方で内政は安定せず,紀元前73年には大規模な剣奴の反乱:〔 ③ 〕の乱がおこるなど,紀元前1世紀は「内乱の1世紀」とよばれた。
①ローマ  ②3  ③スパルタクス
 

 イタリア半島都市国家ローマが建国されたのもギリシャのポリスと同じく紀元前8世紀です。伝説では狼の乳で育った双子の1人ロムルスが建国したとか。このロムルスがローマの名の由来です。最初は王政をしいていましたが,紀元前6世紀末,王を追放して少数の貴族による共和政を樹立しました。
 ローマ人のえらかったところは「法」による支配をおこなったことです。ローマ法に従いさえすれば,征服地の人々にもローマ市民と同等の権利を認めたのです。この法と寛容の精神がローマを強国にした。
 紀元前3世紀にはイタリア半島を統一します。この時期はちょくちょく出るので重要です。【時期】さらに北アフリカで栄えたフェニキア人の植民地カルタゴ(現チュニジア)を破って(ポエニ戦争 ポエニとはフェニキアのこと),シチリア島や地中海の制海権を獲得します。
 領土拡大の一方で内政は徐々に不安定となり,権力抗争や奴隷の反乱が絶えませんでした。紀元前73年におこったスパルタクスの乱はその最大のものでした。スパルタクスは剣奴ととばれる奴隷で,見世物として闘技場(コロセウム)で決闘をさせられた奴隷です。 

   
15 〔 ① 〕(現フランス)を征服し,内乱を治めるなどの功績のあった〔 ② 〕は終身独裁官となり,帝政をめざしたが保守派によって暗殺された。〔 ② 〕の後継者となった〔 ③ 〕は,エジプトを征服して地中海世界を統一し,紀元前〔 ④ 〕年,〔 ⑤ 〕(「尊厳者」)の称号を受けて,初代皇帝となった。
ガリア  ②シーザー(カエサル)  ③オクタビアヌス  ④27  ⑤アウグスツス
 

 紀元前の1世紀の内乱を治め,ローマの勢力をアルプス北方(ガリ)にまで広げたのがユリウス=カエサルという人物です。英語名で表記するとジュリアス=シーザー。 
 ローマの政治は市民代表であり有力貴族からなる元老院,そして元老院によって選出される大統領職の執政官によっておこなわれていました。ただし執政官も常時2人という徹底した専制政治の排除が特徴ですが,非常事態の場合は期限付きで「独裁官」という職が設けられ,あらゆる権限が与えられました。
 この独裁官という職は期限付きだからこそ許されていたのですが,カエサルは終身独裁官という地位につきます。事実上の王です。カエサルとしてはわかっていた。内乱のもとは腐敗した元老院にあり,また巨大化した領土を治めるにはこの元老院に図ってその結論を待つのは非効率的だと。1人の優秀なリーダーが即決して行動に移すことができるシステムこそ,今後のローマに必要なんだと。
 しかし保守派(共和主義者)からするとシーザーは私欲で王になろとしているとしか映りませんでした。それほどローマ人は王政にアレルギーをもっていたのです。カエサルが書いた『内乱記』という本の中で彼はこういっています。「人はみな,みたいと思う現実をみるものである。」
 紀元前44年,保守派は行動に出ます。カエサル暗殺です。その中にはカエサルが信頼を寄せていたブルートゥスもいたことから,カエサルは「ブルートゥス,お前もか」とつぶやいて死んだといいます。(シェークスピア『ジュリアス=シーザー』)
 カエサルの死後,再び内乱が勃発します。この内乱を治めたのが,カエサルの甥:オクタビアヌスでした。これといってとりえのない人物にみえましたが,カエサルはこの少年(当時)の才能を見出し,前もってつくっておいた遺言状でオクタビアヌスを自らの後継者と決めていたのです。カエサルの目は確かでした。オクタビアヌスは見事内乱に終止符をうち,唯一地中海沿岸でローマの支配を免れていたクレオパトラが治めるエジプト(プトレマイオス朝)を征服したのです。
 結果,前27年オクタビアヌス元老院からアウグスツス(尊厳者)という称号を送られ,これまでの執政官の上に立つ,元首の地位を与えられました。元首は各種要職の任命権,元老院への議案提出権と議決に対する拒否権,そして軍の最高指揮権をもつことになります。形式上,元首は元老院が任命することになっていましたが,事実上の帝政です。よってアウグスツス(オクタビアヌス)をもってローマは帝国(帝政)になったといわれます。【時期】
 皇帝をあらわす言葉には西洋ではさまざまありますが,「アウグスツス」というのがその1つです。また「カエサル」という言葉も「副帝」を意味するようになります。ロシアではのちにこの「カエサル」から「ツァー(皇帝)」という称号になりました。また一番一般的な「エンペラー」という言葉は,軍の最高司令官をローマで「インペラトール」とよんだことからきています。
 またカエサルとアウグスツスの名前は以外と身近なところでも使われています。「7月」・「8月」を表す英語です。「7月」を表す「July」はカエサルの名の「Julius(ラテン語:ユリウス,英語:ジュリアス)」から,「8月」を表す「August」は「Augustus(アウグスツス)」からとったものです。ともにその月が誕生日であったのです。

   
16 古代ローマの文化は,〔   〕とよばれる円形闘技場や水道橋などの公共施設の建設にみられる。 
コロセウム 
 

 古代ギリシャの大きな遺産は民主政と哲学です。古代ローマが残した大きな遺産は「法」でした。ローマ法は現在にも通じる法体系を築きあげた。
 また「ローマは兵站で勝つ」というふうにもいわれた。「兵站(へいたん)」とは,食料や武器の配給,兵隊の配備や医療,活動施設の構築・整備・維持です。戦闘では闘争心・武器を扱う技術・腕力だけでは勝てません。それだけで戦おうとするのが蛮族なら,ローマは当時世界でもっとも「兵站」というものを意識していた国であり,文明でした。
 特に施設面を例に挙げると,ローマ街道の整備があります。ローマを中心に軍隊が迅速に移動できる高速道路網を整備しました。「すべての道はローマに通ず」という諺もあります。また定期的な維持管理も重要です。(中世にはこの維持がおろそかになった)。衛生管理も国を維持していくために重要です。この土木技術がさまざまな面でいかされました。コンクリートもローマの技術です。
 都市にははるかかなたの山から上水道(水道橋)を引きます。何十キロも離れたところから水を引くのですから,水が流れるための傾斜を計算するだけでも大変です。引かれた水は生活用水や公衆浴場で利用されました。お風呂に入るという習慣は衛生上非常によい。この習慣はローマ滅亡後,キリスト教の布教によって廃れていきました。(イエスが貧しい生活をしていたことから)
 ヨーロッパや北アフリカには今でもローマ時代の公衆浴場跡が残っています。「浴場」のことを英語で「bath」といいますが,これはローマがイギリスで温泉として開発した「バース」という町の名からきています。
 娯楽面では円形闘技場(コロセウム)が有名です。1世紀のローマの闘技場だけでなく,これもかつてローマ帝国領であったところに現在でも残っています。 

円形闘技場(イタリア ローマ)

水道橋(トルコ イスタンブール)
   
17 ローマ帝国は紀元〔 ① 〕世紀の五賢帝時代に最大領土となり,全盛期を迎えたが,3世紀には各地で反乱が頻発した。 また東方の〔 ② 〕や北方の〔 ③ 〕民族との抗争が絶えなかったため,4世紀に皇帝:〔 ④ 〕は首都をローマから〔 ⑤ 〕に遷都して,これらに対応した。
①2  ②ササン朝ペルシャ  ③ゲルマン  ④コンスタンチヌス  ⑤コンスタンティノープル 
 

 紀元2世紀ローマ帝国は最盛期を迎えます。北はブリテン島,南は北アフリカ沿岸地域,東はメソポタミア地方まで進出し,ササン朝ペルシャ(アケメネス朝ではない)と国境を巡った争いが頻発します。
 ヨーロッパはライン川ドナウ川を境にゲルマン民族と対峙していました。ドナウ川を越えた地域では現在のルーマニアを支配し,このとき入植したローマ人がルーマニア人の祖先となったため,ルーマニアはラテン系で,ルーマニア語はイタリア語に似ているといわれます。
 2世紀のローマ帝国領土は東の漢と並べた歴史地図が重要。関連事項としてシルクロード交易が出題されます。
 ローマ帝国の脅威はこのゲルマン民族ササン朝でした。そのため軍はどうしても東方に向けて出動することが多かった。加えてローマの元老院の腐敗。
 4世紀はじめ,これらのことを考慮して,コンスタンチヌス帝は長年の首都ローマを離れて,東方の要所ビザンチウムに遷都することに決めます。ビザンチウムは以後,コンスタンチヌスの都市(コンスタンティノポリス)の意味でコンスタンチノープルとよばれるようになります。 【時期・位置】

   
18 〔 ① 〕年,〔 ② 〕民族の1つの西ゴート族が〔 ③ 〕川を越えてローマ帝国内に侵入すると,〔 ② 〕諸族の侵入が後を絶たなかった。〔 ④ 〕年,皇帝:〔 ⑤ 〕は帝国を東西に二分したが,首都をローマとする西ローマ帝国は〔 ⑥ 〕年に東ゴート族によって滅ぼされた。一方,〔 ⑦ 〕を首都とする東ローマ帝国は〔 ⑧ 〕年に滅ぶまで約1000年存続した。 
①375  ②ゲルマン  ③ライン  ④395  ⑤テオドシウス  ⑥476  ⑦コンスタンティノープル  ⑧1453 
 

 これまでもたびたびゲルマン民族はライン・ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入していましたが,本格的な侵出がはじまったのは375年です。【時期】(ローマ分割「皆(37),ご(5)めん」おぼえる)
 こうなっては1人の皇帝で広大な領土を守りきれません。そこでテオドシウス帝395年,2人の息子に領土を東西に分割して治めさせることにしました。これまでも分割統治されたことはありましたがあくまでも東の正帝(アウグスツス)が全体をまとめていました。それが完全に分割され,以後統一されることはなかった。
 西ローマ帝国の首都はローマ。この国はゲルマン民族の移動先となってしまったので,分裂から100年ももたずにゲルマン民族(東ゴート族)に屈します。その領土にまもなく成立したのが,やはりゲルマンの一部族:フランク族フランク王国です。西ローマ帝国滅亡・フランク王国成立の時期は,中国では南北朝時代宋王朝のころです。これはおさえておきたい。【時期】
 移動した主要なゲルマン民族では,大移動のきっかけとなった西ゴート西ローマ帝国を滅ぼした東ゴート,(「ゴート」は現在,「ゴシック様式」とか「ゴシック体」とかデザインの用語として残っています。)フランク王国フランク族ブリテン島に渡ったアングロ・サクソン(現在のイギリスの主要民族の1つ)が重要。
 一方,東ローマ帝国(首都:コンスタンチノープル)はゲルマン民族の侵入の影響をほとんど受けませんでした。この国は以後約1000存続することになり,1453年オスマン=トルコに滅ぼされます。(これは非常に重要です)また東ローマ帝国は別名ビザンチン帝国という表現もされることに注意。

   
19 1世紀,ローマ帝国内の〔 ① 〕地方で成立したキリスト教は,イエスの弟子(使徒)によって帝国内に広められた。当初は迫害に苦しんだが,4世紀はじめ〔 ② 〕帝の〔 ③ 〕によって公認,4世紀末,〔 ④ 〕帝によって帝国の国教となった。 
パレスチナ  ②コンスタンティヌス  ③ミラノ勅令  ④テオドシウス 
 

 パレスチナ地方ユダヤが定住した土地でしたが,1世紀ごろはローマ帝国支配下にありました。このユダヤ人の中からユダヤ教を批判し,改革をおこなう形でエスキリスト教を開きます。神の愛を説き,神の前ではだれもが平等で,信仰をもてばだれでも救われる(天国にいける)といいます。ユダヤ教では救われるのはヤハウェ(ユダヤの神)を信じるユダヤ人だけです。(選民思想)
 そのためイエスは皇帝を畏れず自らを「神の子」と名乗ったため,批判を受けたユダヤ人の手引きによって,ローマ法廷に差し出され処刑されることになりました。その3日後,イエスは復活して弟子の前に現れたとされます。この奇跡を目撃した弟子たちはイエスに対する信仰を深め,ローマ帝国各地で布教活動をはじめたのです。
 イエスの弟子の中で高名なのがペテロ(英語名:ピーター)。ペテロはローマで布教し,弾圧にあって死にます。ペテロの墓の上に建てられたのがバチカン聖ピエトロ寺院。そしてこのペテロこそが初代ローマ教皇とされる人物です。
 キリスト教は内乱の激しかった3世紀に信者を増やしていきます。そして4世紀末コンスタンチヌス帝ミラノ勅令を出して,帝国内での信教を公認4世紀末テオドシウス帝によって帝国の国教となりました。公認・国教の【時期】は非常に重要です。
 国教ということは皇帝がキリスト教に従ったということです。このときキリスト教と国家の関係が決まったのです。キリスト教(神)が上,国家(君主)が下。以降のヨーロッパはキリスト教が支配する世界になった。 

   
20 西ローマ帝国の滅亡後,〔 ① 〕年に現在のフランスを中心にゲルマン民族によって〔 ② 〕王国が成立した。〔 ② 〕王国はキリスト教に改宗し,イベリア半島より侵入したイスラム教徒を撃退するなど領土を拡大し,800年に〔 ③ 〕大帝がローマ教皇から西ローマ皇帝の後継者としてその冠を授けられた。 
①486  ②フランク  ③カール 
 

 ローマ帝国が東西に分裂したことで,キリスト教教会が東西でその優位を主張しはじめました。西はローマ教会(ローマ=カトリック),東はコンスタンチノープル教会です。ところが西ローマ帝国が滅亡するとローマ教会はその後ろ盾を失った。劣勢に立たされたローマ教会は,そのあとに建国するまだキリスト教化されていないフランク王国に目をつけたのです。
 西ローマ帝国滅亡の10年後,フランク王国が成立します。文字通り現在のフランスのもとです。フランク王国ゲルマン民族多神教です。ゲルマンの神々は英語の曜日にみつけることができます。軍神テュールは火曜日,主神オーディンは水曜日,雷神トールは木曜日,女神フレイヤは金曜日です。
 さてフランク王国西ローマ帝国領内の今度は被支配者となった圧倒的多数のローマ人を上手に取り込む必要があった。 そこでローマ教会に近づいた。
 両者の思惑が一致したところで,フランク国王が自らローマ=カトリックに改宗した。ローマ=カトリックの指導者はローマ教皇です。ローマ教皇はフランク国王がその地の支配者であるお墨付きを与えることで政治的・軍事的後ろ盾を得ることができ,フランク国王はカトリック信者として堂々と国を治めることができたのです。この関係はヨーロッパ社会を理解する上で非常に重要なことです。ヨーロッパにおける支配者(皇帝・王・公など)とは,ローマ教皇によってその正統性を保障されるのです。
 ローマ教皇のお墨付きをもらったフランク王家はキリスト教徒としてまた指導者として,まだキリスト教化されていない人々を導く必要があります。フランク族は王に習って改宗しましたが,周辺で建国しているゲルマン諸部族はまだです。フランク王国は周辺の国々を征服しながら,教化を進めていきました。
 また7世紀以降,勢力を強めてきたイスラム教徒の手がイベリア半島にまで伸びてきた。異教徒との戦いもキリスト教徒としての義務です。8世紀,ついにピレネー山脈を越えて国内に進入してきたイスラム教徒も撃退します。
 その結果フランク王国は,8世紀末のカール1世のとき,かつてのイスラム教化されたイベリア半島を除く,西ローマ帝国領のほとんどを回復しました。そこで800年,カール1世はローマ教皇からかつての西ローマ皇帝の称号を授けられたのです。【時期】(かつてのローマ帝国に対し,カトリックが認めたローマ帝国という意味で「神聖ローマ帝国」と表現する)そしてカール1世は「大帝」をつけてカール大帝とよばれました。(かつてコンスタンチヌスも大帝とよばれた。)

カール大帝(フランス パリ)
   
21 9世紀,カール大帝の死後,フランク王国は現在の〔 ① 〕・ドイツイタリアに3分裂し,〔 ① 〕には〔 ① 〕王国が,ドイツには〔 ② 〕が,イタリアにはイタリア王国が成立した。イタリアはまもなく小国が割拠し,19世紀まで統一されることはなかった。 
①フランス  ②神聖ローマ帝国 
 

 カール大帝の死後,もともとフランク族では領土を子どもに分割相続していたこともあり,カールの孫の代にそれがもとでもめごとがおこります。これを解決するために3人の後継者はベルダン条約(843)を結び,王国を3分割しました。それでも納得できなかったのか,再びメルセン条約(870)で調整がおこなわれ,フランク王国西フランク・東フランク・イタリアの三王国に分裂することになりました。【時期】
 3つの国はそれぞれ現在のフランス・ドイツ・イタリアであることをおさえておきましょう。のちに西フランク王国フランス王国としてフランス革命が勃発するまで続きます。東フランク王国神聖ローマ帝国としての地位を引き継ぎ,ナポレオンに解体されるまで存続します。イタリア王国はまもなくドイツの侵入にあい,神聖ローマ皇帝ドイツ王とイタリア王を兼ねることになりました。しかし神聖ローマ皇帝はイタリアにいることが少なかったため,イタリアでは諸侯の力が強くなり,しだいに小国家の分裂状態に陥ります。再び統一を果たしたのは1861年になってからのことです。【時期】 

   
22 8世紀,スカンディナビア半島のゲルマン民族:〔 ① 〕人が活動を開始し,ヨーロッパ各地に移動した。北フランスに移住した〔 ① 〕人は10世紀に〔 ② 〕公国を建国,11世紀に〔 ② 〕公のウィリアムがイングランドを征服して〔 ① 〕朝を建国した。 
①ノルマン  ②ノルマンディ 
 

 8世紀,再びゲルマン民族の動きが活発になります。ヨーロッパ北部,現在ではノルウェースウェーデンデンマークに居住したゲルマン民族で,ノルマン人といいます。「バイキング」といういい方の方が耳慣れているかもしれません。バイキングとは「入り江の民」という意味で,文字通り海洋民族です。バイキングはときには「海賊」を意味する言葉として使われてきました。
 ノルマン人はブリテン島やフランス北部に侵入し,定住します。フランス北部をノルマンディー地方というのはそのためです。そこにノルマン人はノルマンディー公国を建国します。そして1066年,ノルマンディー公ウィリアムは海峡を渡ってブリテン島(イングランド)を攻め,その地を征服。ブリテン島にノルマン朝を創始しました。イギリスの歴史上「ノルマンの征服」とよばれます。
 ここで少しややこしいのは,ノルマンディー公国はフランスの地ではフランスの一部です。よってフランス王の配下にあります。そして同時にイギリス(イングランド)ではイギリス国王なのです。この関係は長年,両国の関係をこじらせていく原因となります。
 またイギリスではゲルマン系の言語とフランス系の言語が交じり合って現在の英語のもとが誕生することになります。英語にはフランス語から取り入れた単語が非常に多い。 

   
23 中世の西ヨーロッパは〔 ① 〕教会の影響下で,国王・諸侯・騎士・教会などの支配階級が〔 ② 〕とよばれる農民を支配する封建社会であった。〔 ① 〕教会の最高位である〔 ③ 〕は皇帝や国王よりも強い権力をもち,その即位や退位に大きな影響力をもっていた。
カトリック  ②農奴  ③ローマ教皇 
 

 ローマ=カトリックフランク王国と結びついたおかげで,西ヨーロッパ全体に影響力をもつ組織になりました。ローマ教皇を頂点に,枢機卿とよばれる大臣クラスの神父,各地方を統括する大司教,そして町・村には司教が任命・派遣されます。これらの任命と教会領の支配は王や領主ではなくカトリック教会の独占です。そして王権は教会(ローマ教皇)の権威に基づいています。王が王たるためには,神に認められなけばならないとされたからです。よって神の代理人である教皇によってその地位が保障されたのです。
 王の上には各地の王を束ねる皇帝が存在します。皇帝はカール大帝以降,フランク国王が任命され,フランク王国分裂後,10世紀からはドイツ国王が任命されます。これら皇帝を抱く国は神聖ローマ帝国とよばれました。皇帝や国王の下には各地の領主である諸侯や騎士がおり,彼らのもとに農奴とよばれる被支配者階級がいました。
 ローマ教皇の権力の強大さを示す事件を1つ紹介します。神聖ローマ皇帝ヘンリー(ハインリッヒ)4世が聖職者の任命権をめぐってローマ教皇(グレゴリウス7世)と激しく対立します。ローマ教皇はヘンリーを「破門」という罰に処します。破門とはキリスト教社会の参加を禁止することで,当時のヨーロッパにキリスト教社会以外の場所はありませんから,破門されるとは死を意味したのです。当然周囲の人間は破門された者との接触は禁止されます。皇帝であろうと助けてもらえません。
 ヘンリーはイタリアのカノッサ城まで赴いて,1月の寒い中3日間城外で粗末な衣を身にまとい,裸足でローマ教皇の許しを請いました。これを「カノッサの屈辱」といいます。
 さてこの「破門」。中世キリスト教社会では絶大な効力をもつローマ教皇の「伝家の宝刀」ですが,「カノッサの屈辱」の少し前,同じキリスト教に対しても振りかざしています。相手は東ローマ帝国東方教会です。東方教会の指導者はコンスタンチノープル大司教です。西側世界で頂点に立ったローマ教皇は,ついに東側世界に対して和解を求めるのでも優位を主張するのでもなく,袂を別つことにしたのです。教会大分裂です。 (同時に東側もローマ教皇を破門)こうしてキリスト教は西ヨーロッパのローマ=カトリックと東ヨーロッパの正教会に分裂して今にいたるのです。

   
24 〔 ① 〕年,イスラム教国:〔 ② 〕が勢力を拡大すると,東ローマ皇帝ローマ教皇に援助を要請し,第1回十字軍が派遣された。以後約200年にわたって7回(8回)派遣されたが,聖地奪回に失敗した。一方,〔 ③ 〕・〔 ④ 〕・フィレンツェなどの北イタリア諸都市は遠征に乗じて東方貿易で栄えた。 
①1096  ②セルジュク=トルコ  ③ジェノバ  ④ベネチア  ※③・④は順不同 
 

 11世紀はユーラシア大陸の東西で遊牧民族の動きが活発化した時代です。中国では北方の草原地帯で遊牧民族が多数の国家を建国しています。はこの遊牧民国家にさんざん苦しめられた王朝でした。
 一方,草原地帯を西進した民族にトルコ民族がいました。このトルコ民族がイランを中心に建国し,西アジア一帯を征服したのが,セルジュク=トルコでした。セルジュク=トルコはバグダッドイスラムカリフ(指導者)からスルタン(王)の称号を与えられ,キリスト教徒に対する聖戦を実行し,聖地エルサレムも占領。その勢力は東ローマ帝国にまで達していた。
 そこで東ローマ皇帝は,西側諸国に援助を求めます。そしてローマ教皇の呼びかけではじまったのが十字軍です。ローマ教皇としてはうまくいけば,聖地奪回だけでなく,東側世界をカトリック化できると考えたのでしょう。「神が望んでおられる。」こうして1096年から約200年にわたって派遣されました。
 最初は西側各地の諸侯が中心となって聖地攻防戦が繰り広げられます。3回目はイギリス・フランス・ドイツなどの皇帝・国王が自ら参加。4回目となるももはや相手はイスラム教徒ではなく,行先は東ローマ帝国そのものになりました。これによって一時東ローマ帝国は滅んでしまいます。それ以降もキリスト教徒の王がローマ教皇の許可なくイスラム教徒と条約を結んだり,目的地が北アフリカだったり,当初の勢いはなくなっていきます。
 結果,聖地奪回はなりませんでしたが,これで大儲けした人々がいた。北イタリア諸都市,特にジェノバベネチアフィレンツェといった都市です。これらの都市は十字軍輸送を担当しながら,東方貿易によって莫大な利益を得た。これら諸都市ではのちにルネサンスが栄えます。 

   
25 十字軍遠征の失敗によってローマ教皇の権威が失墜すると,ヨーロッパ各国の王権が伸張した。イギリスでは〔 ① 〕が王権を濫用すると,〔 ② 〕年,貴族が〔 ③ 〕を王に認めさせた。またイベリア半島では〔 ④ 〕・〔 ⑤ 〕王国が中心となってイスラム教徒を撃退して,〔 ⑥ 〕年にキリスト教徒による国土回復運動が完成した。 
①ジョン王  ②1215  ③マグナ=カルタ  ④スペイン  ⑤ポルトガル  ⑥1492  ※④・⑤は順不同 
 

 十字軍遠征の失敗はローマ教皇,つまりローマ=カトリックの権威失墜につながりました。また同時に戦線に出た諸侯や騎士たちも没落していきます。変わって国内で力をつけたのが,各地の王でした。
 イギリスでは第三回十字軍に参加したリチャード獅子心王が,帰国の途で亡くなると弟のジョン王が即位します。ジョンはローマ教皇と対立して領土を失うなど「失地王」の烙印を押されました。さらに国内では王権を濫用して貴族と対立するなど国民の信頼を失います。そこで貴族は「マグナ=カルタ」を制定して王にこれを認めさせ,王の権限を抑制しました。これはイギリス法の基本法典として現在でもいかされています。
 一方でイベリア半島では王権を中心としてイスラム教徒の撃退に成功しています。イベリア半島では8世紀以降,イスラム国家が建国されました。現在でもスペイン・ポルトガルではイスラム文化の影響が色濃く見受けられます。
 十字軍の遠征と平行して,イベリア半島内のキリスト教国家が立ち上がり,次第にその国土からイスラム教王朝を追い詰めていきました。最後に残った勢力を撃退して,完全に再キリスト教化に成功したのが1492年。この年はコロンブスアメリカ大陸に到達した年としても重要です。【時期】 

   
26  〔 ① 〕年,東ローマ帝国が〔 ② 〕によって滅亡し,イギリスとフランスとの間の〔 ③ 〕終結した。
①1453  ②オスマン=トルコ  ③百年戦争 
 

 1453年,1000年にわったて存続した東ローマ帝国がついに滅びます。滅ぼしたのはオスマン=トルコ。これは年とともに非常に重要です。【時期】
 同じ年,以前から争いの種だったイギリスとフランスの領土問題(ノルマンディー地方など)や王位継承争いなどが原因で約100年続いていた英仏百年戦争に終止符が打たれます。フランスにジャンヌ=ダルクという少女が現れて戦争を勝利に導いたとか。
 1453年の東ローマ帝国の滅亡百年戦争終結1492年のコロンブス大西洋横断,スペイン・ポルトガルの国土回復達成。このあたりから,ヨーロッパ世界は次の段階に足を踏み入れたので,この2つの年がヨーロッパの中世と近世をわけるターニングポイントであることをおさえておきましょう。【時期】